しけい

今日は死刑に関する話題が珍しく豊富な日でした

1件目は04年11月に奈良県で起きた小学1年生女子が誘拐・殺害された事件の第一審で犯人に死刑判決が出た件

2件目は小泉内閣解散で退任する杉浦正健法相は死刑執行命令書への署名を拒否したという件

死刑をされる側とする側の話が同日に出るというのも珍しいんじゃないかな


私は死刑賛成派です
でも死刑に犯罪抑止力なんかは無いと思ってます
単に人を殺して無期懲役となり十数年後くらいに仮出所として出られる(許される)のであれば、その出てきた人間を遺族が殺すという事も決して否定は出来ないから
日本には昔「仇討ち」という復讐をある種美化した文化があった事なども含めた漠然とした理由でしかありませんでした

その辺の考えについて山口県光市母子殺人事件の遺族である旦那 本村氏がとあるニュース番組で言った発言を聞き、私は愕然としました


「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺す」という殺人予告で始まるその意見は以下の様なものです

死刑は廃止してはならない
死刑の意味は殺人の罪を犯した人間が罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心し、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのにその生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る
その非業さと残酷さを思い知る事によって等価だという真実の裏返しで初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る
人の命の尊厳を社会が知る
そこに死刑の意義があるのだ


罪を憎んで人を憎まずとは言います
確かにそれは一理あります
だから改心した人間を処罰するのは間違っているというのが死刑反対派の意見
でも死刑の真意というのは実はそのさらに向こう側にある

この意見が果たして正しいのかどうかはわかりません
でも当時23歳だったという本村氏がその若さでこういう心境にまでなったという環境や様々な事を考えると言葉になりませんね…


日本の裁判は基本的に判例主義です
これは少ない数の裁判所と裁判官で数多くの事件を少しでも早く審議をするという主旨から生まれたシステム至上主義と「過去にこういう事があった時はこうした」というのを理由に責任逃れをしたいという役人根性が生んだある部分においては非常に合理的でありながらも、多様化する犯罪を認識していながらそれに対応をしようとしない司法の現状というある種の矛盾を抱えたものだったりもするわけです

犯罪の厳罰化が進んでいるとはいえ、裁判官からすれば死刑判決というのはその人間に「死ね」と言っているのと同じわけですし、過去の判例からある意味逸脱した今回の奈良の事件への判決は私は賞賛にあたるべきものであると思っています
また、山口県光市母子殺人事件において自ら死刑判決を下さず、二審の無期懲役判決を不服として棄却する事で最終決断から逃げた最高裁へのアンチテーゼでもあったのかなと思ったりするのです


かたや杉浦正健法相が死刑執行命令書への署名を拒否した件
これ、気持ちはわからなくないんですよ
犯罪者とはいえ、自分のサインで人が殺される事になるのは間違いないわけですから
大臣を辞める直前に溜まっていた命令書へ一気に署名をするというのが多いというのを昔聞いた事があるのですが、それも無理のない話です
過去にも左藤恵氏が法相だった時、宗教上の理由という事で死刑をしなかった時期があるそうなのですが、杉浦正健法相も同じ宗教を信仰しているようです

別に何の宗教を信仰しようと勝手なのですが、日本で死刑が法律で決まっている以上、その最終決定権を持つ法相に就任する人間はそれを拒否したりするなと言いたいですね
逆を言えば拒否をする人間は就任を辞退すべきでしょう

気持ちの問題だからさ、最後にまとめて署名なんてのはかえって人情があっていい気がしますよ
でも決められた事を出来ないのであれば、最初からやるなと

そんな事を書いていたら、奈良の事件の弁護団が早々に控訴を決めたようです
犯人は公判中しきりに「死刑になりたい」といっていたらしいですからたとえ最終的に控訴という事になっても即日という事はないだろうなと思っていたのですが…

やっぱりクソだったという事でしょうね