ヒロシマ

MrMoonlight2005-08-06

ぜんたいこの街の人は不自然だ
 

誰もあの事を言わない
いまだにわけがわからない


わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ


そしていちばん怖いのは
あれ以来本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに
自分で時々気づいてしまうことだ

こうの史代「夕凪の街桜の国」


私は東京の人間なのだが、家庭の事情で幼稚園に入る位の頃に少し前の間だけ広島の親戚に預けられて生活をしていた事がある。


今でこそ高速道路が通ったり、大型ショッピングセンターが出来たりしてあの頃とは全く風景が違ってしまった場所なのだが、私の頭にあるもっとも古い記憶はそこで過ごした日々だったりする。


最近でこそなかなか行けなくなったが、それでも数年に1回は行っている場所だし、そこへ行く時はいつもあの場所の近くを通っていた。


あの原爆ドームの側を…。


その存在を知ったのは物心ついてすぐ位の事。
大叔母に連れられて、近くの祈念碑に献花をした記憶がある。
無論その頃はその意味がわかる訳もなく、ただ薄ボンヤリとそこに原爆という大きな爆弾が落ち、たくさんの人がそれによって死んだという風にしか思っていなかった。
大叔母を始め、誰もそれ以上の事はその時は教えてくれなかった。


結局、その建物の意味を知ったのは小学3年か4年の頃、社会科の授業でだった様な気がする。
その頃の担任の教師が若いながらも「ヒロシマ」に関して機会を見つけては話してくれたり、本を読ませてくれた人だったというのもあり、私はそれで初めてあの建物を中心とした一帯で起きた出来事を知った。


私はその年の夏休みに広島へ行った。
あの日献花をして以来通り過ぎるだけだったあの建物の側にある原爆資料館と平和祈念館へ行こうと思ったのだ。


そこへ行きたいと私が言った時、両親も親戚の叔父叔母も私を止めた。
しかし結局、最後は大叔母の鶴の一声で行ける事になった。


授業で習ったり、本で読んだりしてそこに何があるのかは事前になんとなく知っていた。
しかし、そこにあったリアルにはまだ物事の善悪が完全にわからない子供ながらも衝撃を受けざるを得なかった。
そして、何故両親や叔父叔母がまだ10歳くらいの子供である私がそこへ行くのを止めたのかという意味がわかった様な気がした。
なにしろそこは子供が受け止めるには重すぎる事実しかなかったのだから…。


見終わった後、誰も私に感想を聞こうとはしなかった。
無論、聞かれたところで私も何も言えなかったんじゃなかったかと思う。
ただ一言、大叔母に「まだあんたにはわからんだろうけど、ここでこういう事があったって事だけは知っておきなさい」という様な事を言われたのだけは覚えている。


それから数年が経ち、大叔母は死に、私は再び一人で資料館へ行った。


あれから私は子供なりに色々な本を読んだ。
原爆そのものについてもさる事ながら、その背景にあるマンハッタン計画についてもわずかではあるが知識を持ち始めていた。
しかし資料館で待っていたのはどれだけ知識や経験を積んでも、何度見ても決して理解しつくす事が出来ない狂気の跡でしかなかった。


私に資料館を見せた大叔母は広島でも山間部の方に住んでいたため、幸いにも直接の被害は受けなかった。
しかし、その翌日、市内に下りその目で惨状を目にしていたそうだ。
そんな大叔母が私に何を伝えたかったのか、そして私がまた誰かにそれを伝えなければいけないのか…。


私が初めてあの建物を見てからもうじき30年になろうとしている。
残念ながらそれまでの間に日本は唯一の被爆国では無くなってしまっていた様だ。


そして一部マスコミの記事によれば日本に原爆が落ちたという事だけでなく、第二次世界大戦…日本とアメリカが戦争をした事があるというのを知らない子がいるというのだ。
(TVのインタビューで「アメリカと日本が戦争なんかするわけないじゃん」とヘラヘラと答えていた1年の内で500日くらい良い顔の男とSEXをする事しか考えて無さそうな小娘を見た時は正直絶句した)
無論、そんなのは極めて少数のマイノリティなのだと信じているが…。


あの日から60年。
別にヒロシマの事だけを語り継ぐという事ではなく、60年前に日本で起きた色々な出来事について今一度正確に後世に語り継ぐというのを見直さなければならない時期に来ているのかもしれない。